第1章 起業家になるために (50周年社長インタビュー掲載)

2020年で会社51期目を迎えています。

50年を乗り越えられてきた会社の知恵とノウハウを紐解くため、兄弟創業者の一人でもある武内清治社長に当社が設立されるきっかけ、会社の歩みをロングインタビュー形式で行いました。

インタビュアーは「合同会社胸打つ企業研究所」代表の石田 浩様にお願いしました。

2019/10月以下インタビュー内容

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浮沈乗り越え節目の50周年に未来見据えて

 「稼ぎたい」また「人を育てたい」さらには「信じた製品を普及させたい」――。起業家を立ち上げへと駆り立てる動機は、実にさまざまだといえる。とりわけ、武内容器(本社=大阪市)の創業者である武内清治を独立開業へと向かわせた背景は独自性が色濃く、先祖から約100年間にわたり脈々と続いた呉服屋の「倒産を中学2年生で目の当たりにし、家業復活という強い夢を持った」という家系愛が社歴の礎となっている。やがて武内が28歳になった昭和43年、兄とともに武内容器商会を立ち上げ、悲願成就へ向けて漕ぎ出していった。以降、結論を先にいうと、武内は激しい業績の浮き沈みを英知と判断で乗り越え、同社を節目の50周年へと導いて念願成就へ片手をかけた。「平穏」とは対極で、また「ドラマティック」と評しては強運面が封殺されてしまう武内清治の半生を紹介する(取材・構成 合同会社 胸打つ企業研究所)

 

●名家の転落を見た中学生が看板復興を決意

 武内は1940年、福井県武生市並木町で6人兄弟の末っ子(四男)として誕生した。生家は江戸時代の末期から続く呉服屋を営む名士で、嫁いできた武内の母親も家督に染まり込み、四男へ「なんぼ貧乏しても武内の誇りだけは忘れるな」と説く熱血母さんだったという。

 呉服屋が創業100年という節目に到達する目前、戦争が同家の行く道をゆがめた。武内の父親は跡取りと見込んだ長男が兵隊に取られて沖縄戦で没すると「ガックリしてしまった」うえ、戦禍によって「呉服は誰も着ない」世が追い討ちをかけた。

 そうして、武内が小学校6年生の終り頃になると呉服店は「だんだん傾いていった」とする段階を経て、ほどなく中学校2年生で刻んだ記憶として「つぶれた。借金取りがカラスのように群がってきては(金になる)畳や襖を運び出していった」と回想。口を真一文字に結んだ後、武内はこの時に「勉強をして武内家を復興する気持ちを、もの凄く強くした」のだと述べ、目線を上げて前方を見やった。

 「しっかりしていた母親」の支えもあって気を取り直した武内は、「母の実家にある蔵で勉強をしていた。高校へ行けると思っていた」など、目指す〝復興〟へ歩を進めていた。ところが、進路指導に訪れた中学教師へ武内の母は息子を「奉公に出します」と親の方針を突き付けた。

 目論見に反した母親の見解に、教師は「武内君は賢い。大学(へ進学)も大丈夫だ」と指導者の立場を示すも、母は「頑として『うん』と言わなかった」という。

 親と教師の論戦が膠着するなか、指導者が「今の時代は高校へ行かなきゃいかん」と押しを緩めなかった成果か、母の言い分が「どこ(の高校)へ行けばいいのか」と軟化した。

すかさず、先生が間髪入れず「乾徳高校(現 福井商業高校)がいい」と推すと、武内を生み育てた母親は「アルバイトができる学校でないと行かせられない」と主張し、なんとか高校進学へ薄日が差した。

●高校では学問とバイトを両立し社会人へ練磨

こうして、武内本人の意見聴取が軽んじられたものの進学先は地元 武生高校に決まった。母の希望に添い、武内は「新聞と牛乳の配達に、酒屋さんの手伝いではソリで酒運びもした」など学資を自ら稼ぎ出し、余りは家に入れる孝行息子だった。

こうした行いを周囲は見ているもので、2年生が終盤に差し掛かると武内は「皆から生徒会長へ推薦を受けた」末に当選。学校の統括リーダーまで務めた3年間を「ひがみもせずによく働いて、よく遊んだ。持ち前の負けん気」を醸成した時間だったと位置づけた。それもこれも、「家業復活の夢を持っていたからこそ」できたと述べた武内の横顔に、いっとき青年の輝きが蘇ったようだった。

 

●世界の美津濃から食指伸びて人生の転機に

高校生活を頑張った甲斐あって、武内は大阪の段ボール会社から就職内定を取りつけると同時に夜間大学へ進む算段を整えていた。

今でいうインターンシップよろしく、翌春には正式な戦力となって働く会社でアルバイトに汗を流していた夏休みのある日、武内へ担任教師から電報が届いた。読めば、スポーツ用品最大手「美津濃の入社試験がある。すぐ帰れ」と要件は唐突だった。

暑さと電報で頭を混乱させながらも、筋道を逸してはならないと考えた武内が身を預けている社長に相談したところ「美津濃といえば良い会社だ。いっぺん行ってみ」と、段ボールの社長は来春の新戦力を欠く心配より武内の将来を嘱望した。

同社長が心温まる言葉で送り出した一方、武生高校からは「美津濃へ武内しかノミネートしていない。お前が試験を受けないと、来年以降は当校から美津濃への門が閉ざされてしまう」と詰め寄られ、背に汗が流れそうな重圧がかかっていた。

慌ただしく夜行列車を駆って臨んだ美津濃の入社試験は約50人が参集し、採用枠は5人だった。運が味方したのか、論文の題目「これからの青年像 若者はどう生きるべきか」は武内の得意分野で、結果は「盆過ぎに美津濃の人事部長がやってきて(武内を)『とらせていただきます』と言われた」との言葉に結実した。歓喜に打ち震える母親を横目に、大学進学の希望が断ちきれない武内は「喜びもいま一つ」だった。

母と子の気持ちを隔てた感慨の食い違いこそあれ、こうして、周囲から注ぐたっぷりの愛情に育まれた武内の学生時代が終わった。

 

(2章 会社設立の転機)につづく