第4章 多様性への挑戦 (50周年社長インタビュー掲載)
前回掲載の「第3章 設立そして成長」では会社設立から最盛期への道のりをインタビュー掲載しました。
引き続き「合同会社胸打つ企業研究所」代表の石田 浩様によるインタビュー内容です。
2019/10月以下インタビュー内容
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●世界金融恐慌の荒波で窮地も化粧品に光明
2008年に起こったいわゆる〝リーマンショック〟の際、武内は同社に降りかかった変化を「大手がコスト削減の一環として新規金型必要とする開発品は不要という方針へ手の平を返した」と述懐している。
また、小売業界へスーパーマーケットが急速に台頭してきたことを受け「重たい硝子容器が敬遠され、(食品容器の主流が)袋へ移行していった」ことも手伝い、同社の年間売上高は最大だった29億円から約12億円に急降下した。ひと足早く、屋台骨だったAGFとの取引も終わっていた。
そうはいっても、社員とその家族の生活を支える経営者は打ちひしがれてはいられない。武内はこの時、ごくジンワリとはいえ伸び始めていた化粧品容器の動きに目を止めた。最盛期は食品容器が主軸で構成比6割だったのに対し、化粧品は同1割とわずかだったが、ここからこれが7割へ駆け上がっていく武内容器の第2幕を突き進むことになる。
食品容器に軸足を置きながら、傍らで化粧品ボトルにも対応してきた武内容器にとり、近い将来的に化粧品事業者は「容器で困るのだろうな」と見通すことができた。どういうことかというと、金型を起こして臨む容器製造が巨額なコストを要する点を考えた時、ロットの標準が食品に比べてはるかに小さい化粧品会社に前出の懸念が当てはまった。
この頃、繁栄した食品ビジネスによる内部留保約2億円があった。これを元手に、武内は「金型(代は)は要りません。ロットはなんぼからでもどうぞ」と標榜した化粧品ビジネスに打って出た。もう、食品容器の隆盛を懐かしむ気持ちは消し飛び、前を向くしかなかった。尊い2億円は、さまざまな化粧品容器の金型に生まれ変わった。
売り方を講じる部分では、信用調査会社へ依頼し「年商が10億円以上で、黒字化している化粧品会社のリストアップ」を求めたところ、武内が投じた〝網〟にかかった企業数は約500社だった。予想以上となった潜在顧客数に気をよくしたことから、独自の金型によって化粧品容器の「汎用在庫を広げる」手を緩めなかった。
会社全体の堪えどころだった「なかなか売れない5年間」をしのぎ切り、「100個から売ります」とする珠玉のキャッチコピーが当たって同社の容器ビジネスが当たり始めた。この頃になると、汎用在庫約800パーツを組み合わせた総アイテム数は同1800種に達していた。
各主要取引先の年間売上高が数億~数十億円だった当時も今は昔――。化粧品がメインの現在は、購入単価が「5~20万円、いっても30万円」と小規模化した。反面、積んだ在庫を販売するスタイルへ転換してことでビジネスの粗利率が向上した。
また、武内によると化粧品を中心に据えて以降、コスメ容器の出荷状況は「9年間近くで月次の出荷高が前年同月比を下回ったことがない。(年次でいうと)平均で約2割ずつアップしている」という堅調ぶりで、直近に見る年間出荷件数は約5000件に達している。一日あたりの平均出荷件数は現在、20~25件とフルフィルメントを外注するレベルではなさそうだ。
巻き網漁法のようだった食品が中心の時代とは異なり、化粧品が柱となった現在は一本釣りに近い形で顧客接点を重ねている。このことによって、武内はかつて見えなかった景色を「困っているお客様って全国にいるんやなぁ」と評し、BtoBビジネスながら販売先とつながる喜びに目を細めた。現在、アクティブユーザーの口座数は約3000件に達した。
顧客との距離感が近くなったことは、武内の次のような発言からも手に取るように分かる。「お客様から『100個でも販売してくれてありがとう』と手紙が届くほか、梨や苺といった季節の果物をお送りいただくなど(大口客が相手だった)最盛期にはなかったこと」だと述べて目を細めていた。ほどなくやって来る正月を前に、「長い休みは(大口先から取引を)切られてしまわないか心配でならなかった」のに対し、化粧品に生きる今は「枕を高くして寝られてている」のだという。
たった50年、されど50年といえそうな同社の歴史を振り返り、武内は淡い安堵の表情で今を「危機を乗り越えて回復期に入ってきたかな…という時に50周年がやってきた」と定義している。
一方で、武内に安心の風情はまだ見えず「今の在り方は(化粧品中心へ転換してからの)まだ序盤。これから先の10年間で、いっそう徹底的に伸ばしていかなければならい」と述べて口元を引き締めた。やがて競合になるかもしれない年商が100億円規模の容器ディーラーと比較した場合、自社は「吹けば飛ぶよう」だと現状を直視している。
食品から転じて化粧品を中心に据えるも、飛躍できない5年間があったことは前出の通り。この期間に支払いで「あかん、手形が落ちへん」また年末の賞与原資が調達できず「断腸の思いで(社員に初めて)堪忍してもらうか」と、弱気の虫が鳴く武内を叱咤したのは妻の良子(2018年2月に死去)だった。とにかく「肝っ玉母さんだった」と武内が強調する妻は、夫を脅かす弱気を奇策と自身の土性骨で振り払う内助の功を発揮し続けた。
約2時間にわたった取材機会において、武内の顔は抑揚に富んで変化し、浮沈と無縁でなかった同社の情勢が分かり易かった。
そうした中でも、武内の表情が唯一の深淵な悲しみを湛えたのは、亡くなった妻が「50周年(の祝い)に出られたら、きっと喜んだろうなと。それが一番の悔い」と述べた時だった。内助の功で支えた亡き妻を報い、武内は100周年また150周年と元気な会社が続く体制を残さなければならない(文中敬称略)
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後記
どこの企業でも創業者の思いが詰まった会社設立から、成長、困難など様々な要因が重なり、継続されていくものだと思います。
信念が会社のエンジンとなり、お客様そして社員が車体を作り上げ変化させ、市場がエネルギーとなって走り出す構造であることはいつの時代も変わりないものであり、過去を振り返り見直し活かすことで先の未来を切り拓けるものだと感じます。
コロナ禍の環境変化においてもきっと経験となり、多様性に対応する知恵と努力が生まれることを意識しながら、武内容器の役割を充実させていきます。